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やや偏りのある御菓子の歴史Uです。

洋菓子輸入時代(明治、大正、昭和)のお菓子は、明治維新後、国内が安定し始めると海外文化に眼をを注いだそれから以後の数年は西洋崇拝よりもさ西洋模倣時代であった。これを鹿鳴館時代と言う。最初は動物性油に親しめず、バター、ミルクを中心とした洋菓子に馴染めなかった。しかし、明治十年、二十年、三十年と経つうちに輸入であった菓子も価格が上昇した。

 

国内での洋菓子制作の功労者は、京橋鍋町(銀座4丁目)の米津風月堂であった。その後本格的に、洋菓子専門の製造会社を森永太一郎手によって(森永製菓会社)設立した。

 

喫茶店の出現と洋菓子は、明治四十三年(1910年)西銀座に喫茶店の最初「カフェーパウリスタ」(現在のカフェー)が出現した。ここでは、純粋のコーヒーと数種類の洋菓子を飲食させた。当時コーヒー一杯五銭でありお客はコーヒーを飲みながら洋菓子を食べ、三十分も一時間も友達と話し、考え読書さえした。大正時代続々とカフェーが出来きコーヒーと洋菓子はますます大衆化した。

砂糖の歴史は、江戸時代砂糖が精造されても少量でかつ輸入品も高価で、白砂糖は、上菓子司だけに使用が限られていたが、明治以降は輸入品も多くなり自由に使えるようになった。

 

糖が日本に最初に渡来したのは、奈良朝孝謙天皇の天平六年(754年)黒砂糖を献上した。砂糖の言語がサルカラ又はサツカラであることから原産地はインドであったろう。平安時代の菓子の甘味料は、甘葛煎であった。あまずら(甘葛)には、「蔓あまずら」と「木あまずら」の二種類が有る。元亀天正年間ポルトガル人が南蛮菓子の製法と砂糖とをつたえてから砂糖の利用が増えた。輸入ばかりではなく精糖にも力を注いだのは徳川八代将軍吉宗(16840〜1751年)は、甘藷の栽培を奨励した。高松藩での成功は顕著で後の三盆糖はここが元祖である

 

式菓子とは、和菓子の最高級品である。まず三個、五個、七個と奇数であり祝儀用、不祝儀用、宴会用などの料理の膳への附物であった。例えば祝儀用の場合、向附羊羹に松を、手前右盛に練り切りの梅を、左盛に雪平で竹を配する。不祝儀用の場合、図案及び色彩を考慮し、雲、蓮、又は蓮の花を配し、その他梵語をもって現す。

饅頭の起源は後村上天皇の暦應四年(1341年)元の宋人林淨因の手によて本物の饅頭が輸入された。京都建仁寺の第二世龍山禪師が宋の国に留学された時、宋人林淨因が禪師の徳を慕って弟子入りした。淨因は禪師の佛弟子ではあったが、饅頭の制作に大變妙を得て、禪師のつれづれを慰めるため點心として献上するのを習慣としていた。やがて宋が滅び元の時代となり、順帝皇帝の至元元年に龍山禪師が帰国すると、淨因もその後を追って日本に渡り、奈良二条村に定住し饅頭製造に従事した。鹽瀬姓を名乗って「奈良饅頭」と称し、饅頭の真ん中に「林」の一字を紅粉で描いて商標として売り出した。姓を「林」にしなかったのは、淨因の祖先が宋の詩人林和姓であり、その子孫が詩で名を成さないで食べ物で名を成すのを恥じて、わざわざ避けたと言われている。淨因の伝えた饅頭は、小麦粉を捏ねて餅とし、それを蒸したものだった。その中に餡を入れたのは淨因後年の創作であったらしい。

 

羊羹(棹物)起源は、平安朝末期の書に現れていて、今の様に甘い砂糖羊羹ではなく「羹」(あつもの)の一種として食膳をにぎわした物で、恐らく現代の「水飩」(すいとん)に類したものであったろう。「羹」は唐の国から伝えられたもので、小麦粉、小豆粉などの穀類を主原料とした蒸し物で、それをお汁の中に浮かべ、食事の汁物として賞味された。その種類は「四十八羹」あったらしい。

練り羊羹は、天正十七年(1589年)、蒸羊羹にヒントを得て、初めて甘い小豆餡の上等練り羊羹を創製したのが京都伏見の駿河屋岡本善右衛門であった。

餅の名の起源は、「元」(もちひ)と呼ばれていたが、後世に「もち」呼ばれるようになった。「もちひ」は、「もちいひ」の(糯飯)の縮まったもので「糯米の飯」の意味である。又一説には、「もちいひ」(持飯)の略で「食べて後長くお腹にもたれる」の意味である。つまり「持ちのよいご飯」であろう。他には、「もちいひ」(携帯飯)で「携帯するのに便利なご飯」の意であるとも言われている。

或る一部の人々の間に、餅のことを「かちん」とか「おかちん」とか言っているが、その由来は、諸説色々あって定説は無いが、「搗き餅」(かちいひ)から来たとゆうものらしい。この言葉は平安朝以来宮中や仙洞御所(上皇や法皇の御所)の女房間で用いられた言葉で、やがて全国に広がり、上流階級の婦人間で愛用されるようになりました。この由来の異説として、「かちん」を「歌賃」であると言う説です。足利時代の末期、宮中が極度に衰弱された頃(後土御門、御柏原、後奈良、正親町の緒帝の時)、宮中に餅を売りにくる商人から宮中で餅を買われたが、餅代が無くその代償として短冊や色紙に詩を書かれた。ついには歌の書かれた紙を玄関に貼っておくと餅屋はその紙の代わりに餅を置いていった。

餅は日本独特のもので、農耕中心とした弥生式文化人独特のもので恐らく紀元前二,三世紀頃からの物であろう当時は糯米、粳米、栗、黍、大黍、小黍、豆、胡麻、などを用いて蒸して搗いて餅を作っていた。

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