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   人と菓子の 伝統・習慣 独り言

 

やや偏りのある御菓子の歴史Tです。 

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お菓子の始まりは、定かではないが弥生時代、鳥獣を捕らえたり農耕している途中、空腹を感ずれば野生の「果物」「木の実」を採って食べていたであろう。自然にこれらのものは、重要な補給食であり、生活の一部になっていたであろう。

 

「くだもの」(果物)の「く」は、「き」(木)から分かれたものらしい。原生人の常食品の一つが「野生の木の実」であったことからも言えるであろう。「くわし」(菓子)の「く」も「木」から分かれたものと言われる、これらの事から「菓子」が「くだもの」(果物)に起源していることになる。平安朝後期(1100年頃)栄花物語の中の「もとのしずくの巻」の中に「さまざまのくだものをに皆の物の形に造りなどして」とあるのは、現在の菓子のことで、当時まだ菓子という名詞もなく「くだもの」の言葉の中にふくまれていた。「人造くだもの」の意味であると同時に、菓子が野生のくだものに端を発していたことが判る。わが国上代の菓子とは、「古能美」(木の実)又は、「久多毛能」(果物)であって、今の菓子は平安時代に輸入された唐菓子ひに始まるものであると言うのが一般的です。

 

本来、菓子の正字は「果物」で果物の正字は「菓子」であったらしい。菓とは、「果物」意味でまた、「久佐久多毛能」(くさくだもの)の類があります。江戸時代天和から元禄の頃(1468年前後)に至って菓子が俄かに発達して菓子と果物が分立し果物を「水菓子」とし菓子、水菓子、青物とに分けられました。

 

上古時代(弥生、奈良時代)の菓子は、全て穀類製品で、糯米、粳米、小麦などを単独又わ混和して、搗き餅や蒸団子にしたもの、或いは稗、粟、小豆、大豆などを餅にした粟餅、小豆餅、大豆餅などの程度であった。焼米(やいごめ)、糒(ほしい)乾飯は生活の特殊な必要からつくられ、飴や果汁も調味料とて利用されるのと同時に菓子としても作られた。仏教伝来(552年)以後、大陸から多くの菓子が輸入され、或るものは退けられ、或るものは愛好され次第に日本化されていたが最も歓迎されたのが餅の系統であった。上代の日本人の食事は、「古事類苑」によれば、朝夕2回。しかし農夫工夫など全て労役に従事する者は、朝夕2回のみにてはその事に耐えざるを以って、労働多少等によりて1回或いは数回の間食をなせり。日中の食事も間食の一つなり。後世これを中食と称し、独り労働者のみならず、一般に日々これを食することとなれり。上代の簡素質朴な風習は鎌倉幕府以降にまで及んだが、一般には、食事を三度にした。そこで、日中の食事を「非時」といって菓子、果物をあてた。これが「おやつ」になるのである。

 

田道間守が菓子界の祖神とされたのは、垂仁天皇にの九十年天皇(61年)天皇が、ときじくのかぐのこのみ(非時香菓 今の橘)を求めに帰化人の田道間守を常世国遣わされ、十年間の苦心のすえようやく目的の木の実を捜し求め喜んで帰ってみると、垂仁天皇は、前年に崩御、今わ景行天皇の時代になっていた。嘆き悲しんだ田道間守はただちに垂仁天皇の御陵に詣でて、帰国の遅れたわ詫びと約を果たしたことを報告、持ち帰った木の実の半分を陵前に捧げ、半分を自ら食べてその場を去らず絶食、ついに命を絶ったのである。

聖武天皇(700〜756年)が、「橘は菓子の長上、人の好む所」と言われた。上代の菓子が「果物」の意味であることから十分に関係があったと思われる。

 

唐菓子時代(奈良、平安時代)のお菓子は、應神天皇の十六年(二八五年)百済国の王仁が論語千文字天皇に献じ、初めて大陸文化に浴した日本は、続いて欽明天皇の十三年(五五二年)佛教と佛像が輸入され、物質精神両方の生活を向上させてきた。その後文化の母国である中国に渡り文明を持ち帰りたい希望をおこさせた。この希望が遣隋使によって具体化された。推古天皇の一五年(六〇七年)、聖徳太子は小野妹子を隋国に遣わされた。

 

この時代に輸入された唐菓子(からくだもの)は、「八種類の唐菓子と十四の果餅」がある。煎餅(亀甲煎餅)甘露、蜂蜜、も中国から輸入されたとゆう。佛教舶来とともに輸入された牛乳もこの時代しばしば大陸から持ち帰られ甘露、蜂蜜、砂糖とともに高貴の人々の薬用に使われた。尚「ところてん」「かんてん」もこの時代創製された。

 

點心時代(鎌倉、安土桃山時代)のお菓子は、我々の祖先の生活の常食用であった菓子は、上古時代では、一日二回の食事間に食べる間食用となり、鎌倉時代になると都会で三食制になった為、嗜好品的色彩を帯びるようになり、一部の階級の嗜好的独占物となり、庶民から縁の遠いものになった。神佛供のかしも次第に故事を尊ぶようになり、或いは饗應の食事上がる一種の料理菓子となった。特に足利時代になると茶の湯の発達とともに茶道のためのお菓子もつくられるようになった。

 

點心とは、本来定食と定食との間の小食のことである。茶道に使用する菓子を點心と言う。または、茶の子、茶菓子とも称した。點心には主として羹類が用いられ、次に麺類、最後に饅頭類であった。

 

この時代に特筆すべきことは、後村上天皇の暦應四年(1341年)元の人林淨因の手によて本物の饅頭が輸入され奈良饅頭として天下を風靡した。またその後約二五〇年の天正十七年(1859年)には、練り羊羹が京都伏見の駿河屋岡本善右衛門の手によって創製された。それまでの羊羹は、羹から発達した蒸し羊羹でしたが、寒天、小豆餡、砂糖の練り合わせなる練り羊羹を発表した。

 

南蛮菓子時代のお菓子は、ポルトガル人が始めて日本に来たのは應永十九年(1412年)、本格的に貿易を目的に長崎に現れたのが元亀二年(1571年)、当時ポルトガル人を南蛮人と呼んだ。南蛮菓子とはこれら南蛮人の手によって輸入去れた菓子を言う。たばこ、「かすていら、ぼうる、金平糖、有平糖、かるめ、ぱん、馬鈴薯、南瓜」などがある。

 

南蛮菓子は、砂糖の大量輸入と砂糖菓子の製法を踏まえ、無糖時代と有糖時代との間に明白な一線をひいたのである。無糖時代に飴や甘葛煎で甘味を付けていたものが、南蛮菓子の輸入ですべてが砂糖に変えられた。一時全盛を極めた唐菓子もいまでは、通用しなくなった。砂糖羊羹、砂糖饅頭というような南蛮菓子が出来て點心と言う言葉も次第に影をひそめた。この意味から言えば、南蛮菓子は、白糖を用いた菓子の総称とも言える。

 

京菓子、上菓子時代(享保、安永、天明度1720年〜1778年)のお菓子とは、江戸時代とは、慶長八年(1603年)徳川家康が江戸に幕府を開いて以来をいうのであるが、京都式のお菓子と江戸式のお菓子とがあり、この、二系列が相競い、発達して、明治に至ったのである。

京菓子は、茶道は、東山時代の趣味をそのまま表現したものであるから、茶道に伴い発達した點心が京都趣味を代表した菓子となたのも当然である。有職故實に重きを置き、観賞を尚び、優美典雅、堂上風の古典に調和した意匠に凝り、菓子の銘までがすべて、短歌、俳句、花鳥風月、結び付けられた鑑賞的表現であった。しかもこの古典を守るため上菓子司を二百四十八軒に制限し価格も協定し、砂糖輸入も業者でやった。この上菓子を京菓子といて上流階級で評判になった。

 

上菓子は、江戸文化が京都から移入されたように、京菓子も江戸に移入された。やがて江戸独特の個性が現れ、その剛健質素な中に、優艶典雅な浮世絵風の情緒が完成し、それが京菓子にたいする上菓子として現れた。上菓子とは、京都に居ては献上菓子の意味であったが、江戸では、駄菓子に対する意味に使用された。当時の菓子司の作るものには、蒸し菓子、干菓子、雑菓子で、民間で商う雑菓子は、駄菓子(一文菓子)と言って、普通の菓子司では作らなかった。上菓子司でつくる雑菓子は、白砂糖を用い、品質までが上菓子と同様であったが、一文菓子は、白砂糖の使用を禁止していた。安永、天明度に至ると、和菓子の技術は現代のものと殆ど変わらないせいこうさであった。

 

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