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 菓子の歴史 人と菓子の 独り言

 

伝えておきたい伝統・季節の習慣

 

 

<正月・おめでた尽くしの風習>

一月/睦月について 旧暦一月の異称

由来は、諸説あるが室町・鎌倉期の文献に。

正月は、上下なく、老いも若いも互いに往来し拝賀し、親族一同が集まって新年の日を祝う。

睦の月の意で、ムツビツキがムツキになった説が有力。

 

正月の由来は、

一年の最初の月をいう。また新年の祝、行事もさす。

「正」が年の初め、年の改まる意味がある。

昔は、孟蘭盆と対応し、半年事に先祖の魂を迎えて祭る行事だったとされている。

一方正月は、年神(正月様)を迎え新年の豊作を祈る月としての神祭りの性格が強くなった。

門松

正月には、その年の年神が各家庭を訪れると信じられていた。

神は、木の梢を伝って降臨してくるとされ、そのためお目出度いと考えられている樹木を家の門や入り口に立てて、神を迎えようとしたのが起源とされている。

元旦

一年の初始の旦(あさ)のことをいう。

「旦」の漢字は、地平線から上る太陽(日)の象形文字。

 

しめ飾り

しめ縄は「注連縄、七五三縄、標縄」とも書く。

天照大神が再び窟(いわと)に帰られないよう縄を引き渡したという。(天岩屋戸の神話に由来)

神前や、神事の場に引いて神祭りを行なう清浄な区域であるを示す縄張りを意味。

なお、しめ飾りも門松と同じように十二月二十八日までに飾り

松の内が過ぎたら外して小正月(正月十五日)に焼く。

 

鏡餅

古くから餅は、神に供える食べの物として用いられてきた。

飾り方は、武家時代になって軍神を祭るという思想が生まれてからという。

具足や鏡台に供え具足餅、鏡餅と称した。

 

飾り付けに使った縁起物のいわれ。

裏白、/ 葉が両方から相対して出ているので、諸向きといわれる。

葉の裏が白いシダ類なので清浄の心を表す.

 

ゆずり葉、/ 春、新芽が出てそれが大きくなってから古い葉が落ちるので「譲り葉」という

家の繁栄に繋がるとしている。

 

橙、/ 冬に熟れて黄色くなり、春先に再び緑になる。落下することなくまた冬に黄色くなる。

子孫繁栄を意味する.

 

昆布、/ 「喜ぶ」という意味から。広布(ひろめ) 夷子布(えびすめ)めでたい異称もある。

海老、/ ひげが長く、腰が曲がるまでという長寿の意。

 

 

<鬼は外、福は内>

二月/如月(衣更着)について 旧暦二月の異称。

日本書紀(七二〇年)では、二月をキサラギと訓ませており、後々「如月・衣更着」の漢字をあてた。

 

「きさらぎ」の呼び名の語源は、

(1) 二月はまだ寒さが残っているので、

  絹を更に重ね着する月「きぬさらにき月」と言い衣更着となる。(国語大辞典、二中暦、下学集)

(2) 草木張月(くさきはりづき→きはりづき→きさらづき→きさらぎ)となる。

  草木の芽の張り出す月だから。(語意考)

(3) 旧暦二月は燕か来る時候であるとされ、昨年の旧暦八月に雁が飛来し、

  更に燕がやって来る月なので「来更来」である(類聚名物考)

(4) 「(陽)気が更に来るから」(和訓栞)

(5) 「萌揺月(きさゆらぎつき)」の略(大言海)

 

節分

雑節の一つで季節の変わり目のこと

立春、立夏、立秋、立冬の前日を節分という。

行事として現在に残るのは立春前日二月三日の節分のみ。

平安時代、大晦日に行なわれた追儺(ついな)鬼やらいの儀式に由来。

一方、春の始めに神が訪れ祝福を与えてくれるという信仰が古くからあり、

神を迎えるために家のお祓いしなければならなかった。

この両者が習合し、悪鬼を祓う行事に発展したと考えられる。

 

針供養

使えなくなった針を集め、感謝の気持ちで供養し、裁縫の上達を祈る。

針は、コンニャク、豆腐等に刺して神棚に供えた後、海や川に流して祓う。

 

 

<花見・卯月について>

四月/卯月について 旧暦四月(五月)の異称。

新暦では春たけなわの頃だが、旧暦では初夏で、古来より宮中では四月一日を更衣の日とした。

卯月の語源は諸説あり

(1) 卯ノ花月、ウツギノ花の咲く月の略(奥義沙他)

(2) 十二干の順で卯は四番目だから卯月と言う(清水千清遺書)

(3) 稲種を植える月ウツキ(植月)から(大言海他)  

   また、すでに播いたものがみな、芽を出すことから、ウミ月の略(兎園小説外説)

(4) ウは、初、産などにつながる音で、1年の循環の境目を卯月とする考えあり。

   その名残りか(海上の道/柳田国男)

花見

かつては特定の花見の日として3月上旬(3日)と、卯月(4月)8日があった。

これらはそれぞれ三月三日桃の節句、四月八日お釈迦様の花祭りにおきかえれられている。

桜の語源は「さ」は早苗、早乙女、五月、五月雨などと同じく田の神様をあらわす。

「くら」は、田の神様のおわします坐を意味しました。

 

「この花の一与のうちに百種の言そ隠れるおほろか(おろそか)になす」(万葉集巻八、一四五六)

と詠み、歌と共に桜の花を乙女に与えたという。

これを桜の咲き具合で一年の豊区、稲の稔を占ったという。

したがって桜の花見はこの延長上あり、民俗学上では予祝と位置付けられる。

神と共に祝う予祝であれば、単に花を観賞するだけでなく酒を酌み交わしご馳走を食べるのも合点がいく。

花見が儀式的なものから純粋に庶民の楽しみに変わるのは江戸時代に入ってからである。

 

 

<水無月>

六月/水無月について。旧暦六月の異称。

水無月の語源は諸説あり

(1)梅雨も終わって水も枯れ尽きる。(新井白石)「東雅」

(2)田植えも済田ごとに水を張る「水張り月」「水月」。(谷川士清)「和訓栞」

(3)田植えも終わり、大きな農作業を全てし尽くした意から「皆仕尽」「皆尽月」。「奥義抄」

(4)この月は雷が多いことから「加美那利月」のカとリを略す。(加茂真淵)「語意考」

(5)「田水之月」の略転。「大言海」

(6)「水の月」で水を田に注ぎ入れる月の意。「広辞苑」「大辞林」

(7)「な」は「ない」の意で「無」の字があてられているが本来は、「の」意。

  「水の月」「田に水を引く必要のある月の意。(国語大辞典)

 

芒種とは。

陰暦五月午の月の正節。

梅雨入り前の昔の田植えの開始期にあたる。

稲や麦など芒のある穀物、稲を植え付ける季節を意味する。

 

入梅とは。

梅雨の季節になること。「つゆいり」ともいう。

新暦では、毎年六月十一日頃(気象庁の梅雨入り宣言とは関係なし)

梅の実が熟する頃に雨季に入る。

この季節は、湿度が高く黴が生じやすいことから「黴雨」といわれ「梅雨」に転じた。

 

氷室(ひむろ)開き

六月朔月は、寒中に貯えた雪の室を開く日。

氷室の歴史は古く、仁徳天皇の頃から中宮に献上され、その行事が武家へ伝わった。

古語では、「氷室の御調」「氷のおもの」「氷水」「氷室の雪「氷室の桜」「氷室守」

現在でも冬の天然氷を夏まで貯蔵、珍重している所もある。

 

 

<七夕・お盆>

七月/文月について 旧暦七月の異称。

文月の語源は

(1)稲の「穂含月」(ほふみづき)だとする説「語意考」

(2)稲の穂の「含月」(ふくみづき)だとする説「大言海」

「あらたまの年の緒長く思い来し恋をつくさむ七月の七日夕は吾も悲しも」

(万葉集、巻十、雑歌、二〇八九)

とあり、七夕に因んだ呼びだと言うのが定説。

 

七夕とは。(旧暦七月七日の事)

七夕の中国から伝来した伝説や行事と、日本古来の習俗が複合して今日に至ったとされる。

その伝説は、奈良時代に中国から伝来。

牽牛と織女がこの天の川を渡って、年に一度の逢瀬を楽しむと言うロマンチックなもの。

乞巧伝(きこうでん)の行事はそれ以前に伝来しています。

七月七日の夜に、供え物をして機織りの仕事を司る織女星に技術の向上を願うもの。

七夕と書いて「たなばた」と読ませるのはこれに由来している。

日本古来の「棚機つ女」は、神を迎えるために機を織る乙女のことです。

後で女神として人々の災厄を祓った。

これが複合して奈良時代に宮廷や貴族、後には民間にも普及し裁縫上達を祈る星祭として浸透した。

笹竹を立て、五色の短冊に詩歌を書いたり、手習い上達を願う習俗は江戸時代から。

 

*機織り、裁縫の上達を祈って薬玉は、必ず五色の糸でつくる。

*ホオヅキを七夕竹に吊るすと、裁縫や字が上手くなるとされている。

*たらいや、洗面器に水を張り星座を映し、牽牛織姫二つの星が映ると恋は成就するとされる。

 

七夕送り。

お盆前に、穢れを祓い清める日本固有の民族行事とされる。

笹竹やお供え物を翌日に川に流すもの、七夕のひの水浴びも同様の意味からである。

この水浴びを「ねむり流し」とか「ねぶた流し」とも言った。

東北三大祭りのひとつ青森の「ねぶた祭り」も、本来は、穢れを水に流す行事だった。

 

八月/葉月について 旧暦八月の異称

葉月の語源は

(1)木の葉が黄葉して落ちる月で「葉落ち月」が「葉月」に(「和訓」「奥義抄」)

(2)「穂癸月」(ほはりづき)「穂張り月」のホとリが略されたもの(「語意考」「東灘」)

(3)この月に初めて雁が来る月で「初来月」である(類聚名物考)

(4)「南風月」(はえつき)の転化。南方より吹く颶風(ぐふう)の多い月の謂い(「日本書紀」)

 

お盆。

盆のの中心は古来七月十五日だが、太陽暦を採用以来、所によって八月十五日にするところもある。

十三日にに、先祖代々のお墓にお参りし、夕方門口で「迎え火」をたき、精霊を迎えいれる。

十四〜十五日は、僧侶に来てもらいお経をあげてもらう。

十五日の夜には、「送り火」をたいて精霊をを送る。

 

魂祭(日本古来の行事)

分家したり嫁いだりした者が実家に集まり、祖先の霊を供養、両親に感謝の気持ちを表す品を贈る。

また、お返しされ共に安泰であることを祝う

 

盂蘭盆とは。

梵語で倒懸(さかさづり)になっているのを救うと言う意味。

本来は、あの世で非常な苦しみを受けている死者を供養し救うと言う仏教行事。

盂蘭盆経を原理にしたもの。

 

盆踊りとは。

本来は、仏教で、母が餓鬼道から救われた事を知った日蓮が、飛び跳ねて喜んだ事に起源している。

また、空也の念仏踊りは、煩悩解脱の方便、悪霊の慰撫鎮送の呪法とも言われた。

 

精霊流し(送り盆、盆送り)とは。

七月十三日に迎えた精霊を十五日から十六日にかけて送る行事。

船を作り、盆のお供え物や茄子、胡瓜で作った馬などを載せて川へ流す事によって、精霊を送る。

地方によっては、灯籠を流す。

 

中元とは。(三元のひとつ)

旧暦七月十五日の佳節で、中国古代の黄帝や老子の教えに基づく道教から生まれた雑節。

正月十五日を上元、七月十五日を中元、十月十五日を下元といい、三元と称した。

中元の日には、人間贖罪の日として終日庭で日をたき、自らの罪を贖うために金品をお供えする。

これが、日本に伝来し、古来の魂祭と仏教の盂蘭盆が混合され、盆の贈答儀礼として継承された。

 

 

<重陽の節句・菊><十五夜>

九月/長月について。旧暦九月の異称

長月語源は、

(1)「夜長月」の略という説が有力。秋の夜長の頃という意味(「下学集」「二中暦」)

(2)「稲刈月」のイとリが略され「ねがつき」が「なかづき」になり「ながつき」となった

(3)「稲熟月」(いなあがりつき)が約され長月に(本居宣長「詞の玉緒」)

 

十五夜

陰暦八月十五日(新暦九月下旬)の月で中秋の満月(名月)

古来日本人は、月の満ち欠けによって月日を知り、農事を行なっていた。

十五夜は、大切な節目で収穫の感謝祭の意も含んでいた。

中秋の名月(芋名月)には、芋、枝豆、薄の穂などを供え、収穫儀礼に基づいていた。

また、旧暦九月(十月)の十三夜も同様に月見の祝いをしました。

芋のかわりに栗または豆を供えたので「栗名月」「豆名月」

十五夜に月見をしても十三夜の月を見なければ、片見月と言ってよくないとされた。

今日のお供えは月見団子ですが、団子が供えられる様になったのは江戸後期から。

 

「菊}と重陽の節句

菊酒

重陽の節句を「菊の節句」と呼ぶのは、中国の菊酒の故事由来しています。

最古の漢方書「神農本草経」に、めまい、眼疾、耐老延年の薬として記載されています。

日本では、菊の花を浸した風流な酒をいうが、中国では菊花を利用して酒を作った

着せ綿

平安時代王朝人が菊酒以外の菊の行事として考え出した。

九月八日に菊の花に真綿をかぶせ、翌朝(九月九日)その露を含んだ綿で体を拭きます。

老いを拭き去り若返りを図ると言うもの(「芸文類聚」)

 

<神無月>

十月/神無月について 旧暦十月の異称

語源には、諸説あり

(1)旧暦十月には、全国の神々が出雲大社に集まります。(「下学集」「奥義抄」)

  男女縁結びの相談をすため、各地の神々が留守になると言う信仰に由来する。

(2)天照大神の父、伊弉諾尊(いざなぎのみこと)の命日にちなむとする説(「世諺問答」)

(3)十月は、雷の鳴らなくなる月なので、「雷なし月」の意とする説(「語意考」)

(4)「神嘗月」「神祭月」「神の月」がカミナヅキの語源とする説(「和訓栞」「東雅」)

(5)十月は、新嘗の準備として新酒を醸す月。(「大言海」)

  すなわち「醸成月」の意で、神無月は当て字とする説。

神無月の語源はすなわち八百万神々が出雲の国に参集するというので「かみなしづき」

一方出雲では「神在月」と言われる。

 

神の留守と夷講

神無月の留守を守る神として恵比寿神や荒神様がある。

夷講は十月二十日同業者または、同地域の人たちが祭祀団体を作り講宿に集まります。

そして、恵比寿神を祭り商売繁盛を祈りながら酒宴を催した。

同業者の場合、親睦、相談、申し合わせを上の前で宣言する、仲間の結束の機会ともなる。

やがて、十月二十日の夷講は商人だけでなく一般家庭年中行事となる。

夷講は十月二十日が最も盛んに行なわれたが一月十日、二十日にも行なわれた。

これらの方は若戎、初戎と呼ばれ、家庭の台所の神として祀られ恵比寿、大黒天を一緒祭る例もある。

 

亥の日と亥の子餅

陰暦十月亥の日亥の刻(午後9時〜11時)に餅を食し無病息災を祈る。

平安朝以来、中国の俗信に基づいて行なわれてきた。

 

亥の子餅の由来は、

猪が毎年十二匹の子を産み、閏年には、十三匹の子を産むと言う伝説

寒中に、猪の肉を食べると保温の効果が得られ精力がつくとされている。

宗教上動物の肉は、忌むものなので猪の肉を餅に見立てて食べた。

 

・朝廷では、玄猪(げんちょう)の儀式が行なわれた。

上の亥の刻の日、中の亥の刻の日下の亥の刻の日それぞれ玄猪の餅を賜わった。

・江戸時代には、元和(1615〜1624)の頃から十月上亥日に玄猪のご祝儀は始まった。

・農村では、亥の子の神を田の神と信じ収穫祭として亥の子を祝った。

・その他、茶道ではこの日を選んで炉を開くしきたりがあり、亥の子餅が多用されている

 

亥の子餅は、

・中国では、「大豆、小豆、大角豆、胡麻、栗、柿、糖」の七種を用いた。

・平安、寛平(889〜898)の頃は、中国にならった。

・室町時代白、赤(食紅)、黄(黄な粉)、栗、胡麻、の五色(陰陽五行説の思想)を作る。

 

 

<酉の市、七五三、新嘗祭>

十一月/霜月について 旧暦十一月の異称

(1)文字通り霜が降る月であるからとすつ説が有力(「下学集」「東雅」)

(2)霜しきりに降るがゆえに、霜降り月といふを誤れり(「奥義沙他」)

(3)「食物月」の略であるとして「新嘗祭を初として民間にても新饗す」(「大言海」)

 

酉の市

毎年十一月の酉の日に、各地の鷲(大鳥)神社で行なわれる祭礼。

暦によって一ヵ月に酉の日が二回もしくは三回あるとしもある

最初の酉の市を「一の酉」次いで「二の酉」「三の酉」とそれぞれ呼ぶ。

 

大鳥神社は、鷲(おおとり)明神と書いたもので、祭神は土師連(はじのむらじ)の祖先アメノホヒノミコト

土師を「わし」と誤読して、鷲の字をあてたという俗説がある。

江戸時代武運を守る神として武士の参拝が多かったが、中期より「とり」を「取り込む」と言う言葉に結びつけ商売をやっている者も参拝するようになる。

酉の市では、縁起物として熊手、八つ頭、黄金餅(かねもち)と名付けられた粟餅などが売られる。

 

七五三

基礎になった伝統的な習俗は武家時代に、

男女三歳で剃っていた頭に髪をたくわえる「髪置き」

男子五歳で袴をはく「袴着」

女子は、着物の付け帯をとって大人の帯を使う「帯祝い」

 

十一月十五日に七五三として祝われるようになったのは、

三代将軍家光が、四男徳松(後の綱吉)五歳の時慶安三年(一六五〇)十一月一五日に、無事と今後の健康を予祝したことに端をはっする。

またこの日は二十八宿でいう鬼宿日で、祝い事は万事に吉とされている。

さらに十一月は秋の実りを産土(うぶなす)の神に感謝する月。

祭りの日を満月の一五日とし、収穫の感謝と子供の成長を感謝し祈ったと考えられる。

 

七五三の総括的な祝い方は江戸中期以降始まったようです。

「増補江戸年中行事」(享和三年/一八〇三刊)

 

新嘗祭から勤労感謝の日へ

新嘗祭は旧暦十一月の二番目の卯の日に行なう。

天皇が新穀を天神地祇に捧げて感謝して共に食する儀式で、農耕国日本の重大な祭儀の一つ。

古くは、新嘗と大嘗と称したこともあったが皇極天皇の時から毎年十一月に行なわれるようになった。

その後天皇即位の初めに行なうのを大嘗、毎年行なうのを新嘗と区別するようになった。

新嘗祭の翌日である辰の日には、豊明節会が行なわれこれを新嘗会とも言う。

 

明治六年以降に新暦十一月二十三日を祭日と定めた。

「勤労を尊び、生産を祝い、国民が互いに感謝しあう日」。

として「勤労感謝の日」という呼称の国民の祝日に定められたのは昭和二十三年(一九四八)。

祭儀は、現在でも皇室で行なわれています。

 

*3月、5月、12月、資料紛失のため記載できませんでした。